本草網目とは?
 中国での漢方は神農(*1)の『神農本草経』(後漢、西暦二五年 -二二〇年)を原典として、多くの増補が繰り返されてきました。

 しかし時代が下るにつれて名称や薬効についての誤りや重複、遺漏が多数含まれるようになってしまい、李時珍(一五一八年-一五九三年)はこれを憂慮して新しい本草学書の編纂を志したのです。 
(*1)解説 神農(しんのう)は中国神話に登場する王。三皇五帝という時代の三皇の一人。人間の身体に牛の頭を持っていたとされる。また炎を司る神。
 鋤を使って農耕することを人間に教えたことから神農と呼ばれ、火徳(五行思想による5つの天性のひとつ)をもって王となったことから炎帝と呼ばれるという。
 腹が透けており、地面に生えている全ての植物について、毒があるかないか、どんな味がするかを、実際に自分で舐めてみて調べたといわれており、このために薬の最初の発見者(薬祖)・医学の祖ともいわれている。
     
表紙野題字と中表紙 挿絵
 参考にした書物は八〇〇種、彼自身も多数の薬物の実物を収集して研究を重ねて二十六年の歳月を費やし、その間に三回の校訂を重ねて遂に六十一歳の時に『本草綱目』全五十二巻百九十万余字をもって完成させたのでした。 
 
田七の記述部 その一
 明の李 時珍が諸本草書を集成・増補して『本草綱目』を出版したのは千五九六年のことが、これは日本の慶長元年にあたります、早くも慶長九年 (千六〇四年) 以前に日本に到来していました。『本草綱目』は、動植物の形態などの博物誌的記述が従前の本草書より優れています。この点が日本人に大きな影響を与え、中国からたびたび輸入されるとともに、和刻本も続出し、幕末に至るまで基本文献として尊重されました
田七の記述部 その二
 『本草綱目啓蒙』は小野蘭山の江戸での『本草綱目』講義を、孫の小野職孝 (もとたか) が記録・編集したものです。単なる解説ではなく、『本草綱目』を軸とした日本の博物誌という方が正確でしょう。享和三年 (千八〇三年) に刊行を始め、文化二年 (千八〇五年) 暮に二十七冊四十八巻を配布し終わりましたが、不運にも翌三年三月四日の江戸大火で版木が失われてしまいました。蘭山の没後に職孝が再版しますが、その版木もまた火事で灰と化してしまいます。
『本草綱目啓蒙』の挿絵
 『本草綱目啓蒙』の三七と書いているのが「田七の」ことですが、そこには生産地広西(現在中国の雲南〜広西省周辺で採れるが、)しかし和産(日本では)どこで採れるのかはいまだ判らずとあります。
 当時「田七」に対する知識はありましたが、日本で採取されないということで、効能は高いが輸入品しかなかった為あまり知られていなかった様です。
 もちろん現在でも輸入品しかありませんが。
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